昭和52年8月8日 朝の御理解
御理解第22節
「天地金之神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等に
おかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神
の徳を十分に受けようと思えば、ままよと言う心を出さね
ばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ」

 昨日、参拝をしてまいります皆さんに私は一人一人に申しましたことですけども、今日の御理解を繰り返し頂きなさい、今日の御理解はもう合楽の信心のある意味で余すところ無く説いてある、しかも本当にその気になったら楽しく新人の稽古と言うのはできるんだなあそして、いよいよ神様の願いでもあれば、私共の願いでもあるところの最高のいわば境地もまたは最高のおかげも頂けるほどしの御教えだから今朝の御理解はしっかり繰り返し繰り返し頂きなさいというて皆に申しましたことでした。
 皆さん昨日の朝のご理解を頂いてそんな風に感じられなかったですか、わたくしはこれは日々やっぱり同じことを言いたいような感じがありますけれども、昨日もとりわけそんな風に感じました。普請作事をするのに日柄とか方位とかいったようなものは見るに及ばないとこういう御理解、だから金光様の信心をしていればそういう事はもうないんだとまあ迷信だと言うふに頂いて行く金光様のご信心をさせてもらえば日柄もなければ方位もないのだというふに分かると言うだけでなくてそれがスッキリと心の底から分かると言う事でしたよね。
 だからその心の底からその事がスッキリ分かるということはきょうの御理解で言うと天地金之神と言えば天地一目に見ておるぞと仰ることは、もう天地の親神様の余すところないお恵みと言うものが、中に私共があるのだとその中に私共があるのだとその中に日がよい悪いの方角がよいの悪いのそんなことがあろうはずがないことが分かって来るのですね天地金之神様は、もう言うならば世界一目に見ておる、天地を人目に見ておるとこうおっしゃるね、ですからそういうスッキリした信心が分からせて頂くために、真心でなければならないというその、真心とか、真心一心で成就しない事はないんだと、と言われておりますその真心はと言う事を昨日は非常に、この丁寧に説いてあります。
 昨日研修の時話したことですけれどもまあ何処の教会に参っても何処の先生でももうこの神様は真心一つで助かる道ですから、しっかり真心を一心のまあことを表して、いわゆる真心こめて信心しなさいよ、とこういった何処の先生でも言います。
 ね、もう真心第一といいますよ、そんならば、んなら真心とはどういう信心をさせて頂いたら真心の信心でしょうかと、問れたらそりやあんた真心ていち言う程度のことしかわからんのぢゃなかろうか、所が昨日の御理解をいただいておると、もう真心とはと言うことを天心地心ということから頂きましたよね。
 天の真地の心という、天の心そのものが真だ言うならば与えて与えて止まない美しい無条件なこころ地心言うなら地の心黙って受けて受けて受けぬく心合掌して受けていく受け心その受け心と天の真とが一緒になると真心という事になるじゃないか、ねだからねもう今日早速からです言うなら天地の心を心として一つ限りなく美しくなろう無条件で奉仕もさせていただこう、どんな事が起こって来ても黙って一つ本気で受けて受けて受けぬかせて頂こうと腹を決める事が真心一心という事になるのですからそれをもう金子さんという方のお夢を,二日のお夢を具体的にお夢を物語った真心というか神様の願いというか信心を、真心込めての信心が、その真心というのはまだ限りがない事であってね、例えばブドウを頂くというおかげの信心から、ブドウをブドウ酒にしていくという信心の過程をその金子さんのお夢の中から聞いて頂いたですね。 
 それで私皆さんが繰り返し繰り返し頂いておるのをここから聞かせて頂いて、なるほど本気で天地金乃神様の信心が頂きたいわかりたいというなら、今日の御理解を本気で行じようという気になれば、みやすう楽しう天地金乃神様の信心が一つになれる一緒に神様と私共言うならば、神の心を心としてというと大変難しいようにある、そりゃとても神様の心ごとはなれない神の心を心としてなどとはとても言うだけでできる事ではないというだけでなくて、もう今日から早速ただ今から昨日の御理解をいただいたら、一つ本気でおかげ頂こうと思うなら、真心ですよ本気でおかげ頂こうと思うなら、真心一心でなからないケマせんよ、そんなら真心とは、と、昨日はこいうことだ、こういうふにして頂いて行くんだという事が昨日説いてある。  
 だから繰り返し今日の御理解いただきなさい合楽の信心がいうなら余すところなくまあ頂ける、ね、頂ける信心だそげん取り組んでかかつてそれが簡単に自分のものになってしまうというような事はこりや大変な事、「    」けれども真心でさえという、んなら真心とはどうあることが真心かと言うことを追求して、でた答えが昨日の御理解だね、だから自分というものを反省してみるというならば天の心でもなからなければ地の心でもないね、そこから天の心とは地の心とはとそれを日常生活の上に頂いていこうとこういうことなんです.
 おかげを授けるが受け物が悪ければおかげが漏るぞとあります。昨日特別奉修委員の方達の御祈念の後に、聞いていただいた事でしたけれども、久留米の佐田さんが昨日お夢を頂いておられる。それは高い山の頂上に部落がある、そこの部落にあるその部落にも似つかわしいないほど素晴らしい大きな公民館がある、もう広いひ広い公民館である。
 そこの舞台で、もうそれはもう見取ってもそれこそあの、ほとほと感心するほどしに素晴らしい踊りを誰か踊っておられる。ところがそれを見ておるのは、その人たちの踊り子さんたちの身内の方建ちだと思われる、おおつかな人がその広いその会場で踊りを踊ってる見物をしておるというお夢であった。
 それはまあ合楽の信心の事でしょうねと私は申しました。今合楽で言われておる合楽理念に基づいてという合楽理念の説明なんかを聞いたら本当に宗教にいよいよ関心を持っていよいよ宗教を極めていこうといや極めていっていよいよわからないという人達に、みせたらそれこそねビリグイの御信者さん方じゃないですけれどもですね、もう合楽理念という事を、が、探して探して求めに求めておった信心とはこれであったと飛びついてくるほどしに素晴らしいんです。
 有難う楽しうしかも愉快に、それが行うじて行けてそしておかげが受けられてお徳が受けられてしかもあの世までも持って行けれると言うのですから、そして本気でなそうとおもや誰でもでける信心、いうならば子供もでもでけるような信心が説いてあると言うのですからね、そりや見る人が見たら聞く人が聞いたらす晴らしと思うです丁度山の頂上にある公民館で踊りを踊っておるのを佐田さんがご覧にたって、何と素晴らしい踊りだろうかと、正しそれを見ておる者はその親身のもの内々しか観てない。
 いうならば。日々のこうしたご理解を、んなら、合楽の御信者だけしか頂いていないという事ではなかろうか。
 合楽でおかげを頂いておるこのおかげの有様おかげの状態をもし見たら本当ではあるだろうかと言うほどしのおかげを皆が受けておるという事である、合楽にはもう奇跡という言葉はないもう今まで言うて来た奇跡というおかげはもう当然当たり前の事として頂けるほどしの合楽理念というのはそのように素晴らしいんだとまあ最近幾日かその事を皆さんに聞いていただいとります。
 奇跡というような事ではない、信心してみがげのあるお不思議というまじきものぞ信心してみかげのないときは、これ不思議なる事ぞという、言うなら教祖のみ教えをそのままに合楽では今頂き同時に表しておるんだと、ね、惜しい事であるこれほどしの踊りを沢山の人に言うならば「   」見せたらどんなに皆が喜ぶかわからない、ただ合楽の内々の者しか観てないいうなら聞いていないという事である。
 どういうわけなんだろう、それはあまりにも高い山の上だからではないかということである、ね、ここのバスに乗っていつも通る人達がはあここはいつきたっちゃ自動車が一杯で私もいつかここに一遍お参りしてみようおもよるばってんかなかなか機会がないという人達がバスの中には沢山乗リ合わせておるという事です。
 根、一遍参ってみろ一遍参ってみろと思うて折る人達が沢山あるけども、あまりに山が高いから登られんなおる人たちも折るんではなかろうか、だからこの合楽の信心をです、いうなら平地に持って来たらいよいよ言うならば世界の氏子に見てもろうたり聞いてもろたりでけることになる働きが起こって来るだろうというて昨日話しました。
 そんならそれを平地に持ってくるという事はどういう事であろうか、昨日ある方が毎日日参されますちょっと足を悪くしてというて電話がかかってきた、これは実は熊谷産です時々足が立たんようになられる、総代会もあるから今日はご無礼するからというお届けであった,所が昨日総代会にも出てなかった,あれほどの熱心なまあいうならば合楽の信心の一つの見本手本と思われるくらいの素晴らしい信心をなさっておられる。 
 で,その時特別奉修委員の御祈念の時その事を御祈念させて頂いとりましたら,熊谷さんがこんな高いたかぼこりの下駄を履いておられるところを頂いた,そしてその他かぼこ理が著つとかけておる,たかぼこ理を履いてくリっとすると転ぶでしょうがね、だから、はあはここに転ばれる元があったという事なんです。
 あれほどしの信心を頂いておられてもです、まだたかぼこりを履いておられる,人間だからたかぼこりを履いておる分は良いけれども,人間だから生身を持っておるからどこにかげたことがあるやらわからない充実した信心しておるようであってもかげておる,そのそこが繰りっとしていうならおきずけを頂いておられる。
 いうならば,また本当にあれほどしの信心がでける人は先ずなかろうと思うくらいです、ですからおもいはしよらんけれども、その中身にですねいうならたかぶる心があるたかぼこりがあるわけね、それはよその共励会などにまいりましてから、本当に合楽の信心を頂いてお話を頂きつけておるとなんかよそにいったら程度が低いように聞こえてくる、
 またよその信者さん方みてると程度の低い信心しとんなさるように見えてくる、もうすでにたかぶっておるわけです。ですからこのたこぼこりをぬいでそれこそ大地にシッカリ根を下ろしたようなというかそれこそね、はだしであるかせて頂くならころぶ事もないのだと思う・
 だからいうなら高いところにあるいうならばその、佐田さんの頂いておられるお夢がです平地に戻るという事は私共がいうなら裸足の信心をすることではなかろうか、ね、合楽のものはとにかく高くとまっておるというようなやはり評判があっておるのじゃなかろうかね、また事実そういうおかげを頂いとりますけども、信心というのは、いうならば実が入れば入るほど頭がさがつて行くのが、信心の本質であります、信心が分かれば分かるほど言うならね、いうなら屑の子の自覚ができてくるという、それに反対にやはり高ぶる心が何時の間にか、どこにかでけてきておるということではなかろうか。
 そこでその合楽の信心を高いところから言うなら低いところ誰でも見れる誰でも聞かれるような名ところえ持っていくためにはどういう信心をしたなら良かろうかという事であります。
 最後に十二分の徳を受けよと思えばままよという心をださねば、ままよとは死んでもままよのことぞ、しんでもままよのことぞ神様と私共との間というものがね、いよいよ密接な係わり合いをもって結ばれていくね、そこから天地金乃神様と一体それを昨日は天心地心という御理解で頂いた訳です神様と繋がって行く言うなら神の心を心としていく精進それは難しいように思うておったけども、こんなにもみやすうてしかも楽しゆうてありがたく頂いていける道がある。
 都都逸の文句にこういう文句があります、恋いの極楽情けの地獄ままよ捨て身のこの体恋いの極楽情けの地獄ままよ捨て身のこの体、私共と神様の間がです本当に密接に繋がっていったら、こういう心が生まれてくるのです。
 もうこの信心に一心一命をかけておる。ね、私は今日はねままよとは死んでもままよのことぞというのは私はこういう心の状態じゃなかろうかとおもう、ね、本当に好きおうてそしてそれが結婚が例えばできないという人達が、あのしゅんじゅをします、ね、もう死をも恐れぬほどしの事なんです、いわゆるままよ捨て身のこの体であります。
 誰がなんと言うたって離れられない、離れろというならもう死んだ方が良い、しかもいうならばですね、そんなに楽しいう嬉しいう死んでいくわけないでしょうけれどもですね、やっぱり一つの恍惚とした心持が開けてこなければ死ぬことは出来ないと思うです。
二人が固く結ばれてね、もうこのまま死んでも良いというような心の状態が開けてくるんです。信心もやはりですね、ままよ捨て身のという事はそういう事だと思う、死んでもままよという事はそういう事だと思う。そういう心の状態が何処から開けてくるかというと今日の御理解天心地心である、ね、天の真地の心いわゆる真心、そういう真心を持って乃信心でけていく時にね、神様の心を心として流れてくる私共の心が神様にまた通うて行く通い通われていくところの心の状態がね、おかげであるということ信心のまあ、最高の境地のところ命をかけるというようなことはそういう事だと思う。
 命を賭けるという事は一生懸命なら何処に一生懸命になるかというと、参ったり拝んだりする問いことで泣くね、天地日月の心というか、天の真地の心、天の心を心としての生活地の心を心としてのんならそれをんなら簡単に申しますと、天は与えて与えて止まないしかも無条件そういう心を自分の中に頂こうという精進、黙って受けて受けて受けぬくそれを親愛として受けていくうちに自分はいよいよ豊かになって行くどんなもので受けていくというのがいうなら大地が豊穣になる大地が豊穣の土地になっていくようにね、そこに天地との交流ができるようになってくる。
 私は今朝がたから、こんなお夢を頂いた私の部屋え行くのにいく曲がりもして行かなければなりませんが、その曲がりに曲がりにでんきがあります。私はこちらの方からこういって電気を一つこう押したところがちょっとこうつかないそれでまたひと曲がりしてからまた電気を押したけれどもまたつかない、そしてまた自分の部屋をあけたら自分の部屋も真っ暗である、ああ今停電してるんだなと思って休んだんです。
 阻止たらすぐ幹三郎がやってまいりましてから夜中にすみませんけれども色々考えぬいて考えぬいたて分からない事があるからお伺いに来たとこういう、どういういことか、仏教でいう所の大変難しい言葉を使って言うのです。
 こりや金光教で言うならどういう事ですかというてお伺いに来たんです。電気が真っ暗の時明日でもよかやないかといいながら私が目が覚めた。そしたらお夢であった。そして私は思うたんですけれどもね、あのう、幹三郎が求めておる尋ねておるという事はどういうことであるかというと、言うならばああ、最近合楽理念の中に言うております、成そうと思えば子供でも成せるような事を疎かにしてはならない。
 例えば電気をつけたつかなかった、それを気が付かなかった次のところまで行って点いてないからああまたこうして押したらつかない部屋を開けてみたら部屋の中もくらかああこりゃ停電してるんだなと思うたら私はもう一遍ひっくりかえってスイッチこうしておしとかなければいつ電気が来るやらわからん、点くやら分からん。するとそれだけは無駄になるじゃない、それを私はせずにもう床の中に入った、ね、そういう心が高ぶる心というんです、それを私はどうしてそげんことかと思ったら私が部屋に入ってからその帽子をかぶって部屋に入るはずはないけれども、山高帽をかぶっとる、山高帽をかぶってそれを応接棚の前にこう置いて休んだところであったから、ははあ昨日佐田さんが頂いた高い山にあの公民館があってというそのことをです。はあ山高帽という所これが高い山という事だなと思うたんです。 
 ね、もう本当に私は電気がついとるならもう夜中に回って、良く付けわすれとるから消して回ります、だけ関心を持っておられますけれどもあのそのつけたけれどもつかなかったまたつけたけどもつかなかった、いわゆる入ってみたら真っ暗はあこりゃ停電してるなと、こう思いながらです、んなら停電しとるのだからいつつくやらわからん、もうスイッチいれとるから、そればもう一遍スイッチをひっくり返って言ってね、それを押した奴をもういっぺんおしとかねば無駄な電気が点くことになるじゃない。それをわたくしはまあよかよかで話しておったそう言うような事が、山高であっていうならこれがまあ、言うならば、高ぶる心人を軽うみな軽うみたらおかげはなしと仰るが、人だけではない物事でも軽うみたらおかげはなしである、電気の一つぐらいついとったっちゃもうかんまんというような心は、もう軽うみた心である、それではおかげはなしと仰るのですから、ね、電気がついとれば消えるけれどもついてないもんだからうかつにして、電気一つ押しながらまたそれを押し返しておらずに休んでおるところに、なら幹三郎が伺いに来たそれは仏教の大変難しいことのように仏教の言葉で質問しておるけれども私がそりあもう明日でもいいじゃないか、その明日でいいじゃないかという心が高ぶる心そしてそりやならどういうことかというと今ね、お父さんこうやって部屋まで来る間に電気をつけてきたけれども停電で点かなかったね、それでこれは停電しとるなと思うてそれをまたもう一遍こうやって消しにいった、ね、それが成そうと思えば子供でもでもなせれる、いうならば合楽理念の中に言うなら今日の御理解で言うとね、受け物が悪ければおかげだ漏るぞというのはそういう所から漏るんだぞと言うことを仏教でも説いておる。
 素のことだよと言うて私の言うならば実行してきた事をその場で教えられる事を私は教えられなかった目が覚めてそういう風にきずかせて頂いたということになるのですね、だからただ今申しますと、合楽理念、天の心地の心というような素晴らしい信心をいただいてんなら昨日の御理解が合楽の信心の全てと思われるほどしのいうなら信心が説いてあるしかも楽しくこんならできるだろうこんならありがたく実行ができると思われるように説いてあるならそういう信心をいただいても、うかつにしておっていうならば高ぶる心があると人間ですからいつどこでかげたところがあるかわからん、そこで転ばねばならないもとがでけたりそこからおかげが漏るぞと仰る、漏る個所がでけたりするわけなんです。
 もう実に微妙な事、点いておる電気なら消すけれども、つけたけどもつかなかった、たらもうそのままにしておるわけです、そして最後に部屋に入ってみて、はあ停電だなときずかせて頂いたそんなら今点けて来たスイッチをもう一遍消しとかねばいつ電気が点くやら分からんと、もう一つ向こうのところえ心の配り方がたりなかったその心配りをして、んなら幹三郎がお伺いに来た言うなら、今仏教で言うそのむつかしいという事はこういうことだよと私が実行してきた事を話せばいわば説明が出来たのに,そげな事は明日でいいじゃないかとそして明日私がその難しい仏教のその言葉で言うてある意味が分かるか返事ができるかわからない、ね、そういう言うならもう本当に微妙なところにです私共の言うなら落とし穴みたいなものがあるわけです。
 いよいよもって信行に徹しておらないと、そこをやりそこなうのです今日はそこの所をですそういうような意味のところを今日は受け物が悪ければおかげが漏るぞということを、もう厳密な厳密な御かげが漏るぞを今日は聞いていただいた。